溢れる涙が止まらない時があった。
鳴り響くサイレン。上空を飛び回るヘリ。道路には大きな陥没や地割れ、土砂崩れ。電波がなく安否確認の電話も繋がらない。大きな余震も起きていたため、恐怖の時間が続いていた。その時の状況を振り返ると混沌というより「サツバツ」としているようにさえ感じた。
輪島市河井町朝市通り(2024/1/22撮影)
能登半島地震が発生して一週間くらい経った頃、家族の無事を確認できて緊張の糸が切れたのか、夜中に車で移動中、自然と涙が出ていた。自分でもいっぱいいっぱいだったことはわかっていた。地震の恐しさとこの状況がいつまで続くのかという不安。そして能登に移り住んで10年、積み上げてきたものが一気になくなってしまうのではないかと、悔しくてたまらなかったのだと思う。
輪島市門前町黒島(2024/1/21撮影)
それでも一度涙を流したことで、どこか冷静になれた自分もいた。
今、自分にできることは何だろう。能登半島は僕が写真を始めるキッカケになった場所。地震発生時は心に全く余裕がなくて家族や実家のことしか考えられずにいたけど、まずは奥能登を中心に被害状況を確認することにした。
能登半島に起きた現実と被災地の声
悪夢を見ているようだった。
思わず目を覆いたくなるような悲惨な光景が広がる。この場所でどれだけ恐ろしいことが起きたのだろう。全壊した家屋が多く、津波の被害が甚大な地域もあった。現実を見ると、日常や復興などという言葉は程遠いように感じた。
珠洲市飯田町(2024/1/23撮影)
被災地でお会いした避難者の方々やSNSなどを通じて「私たちの町の被害はニュースで全然伝えられていない。たくさん写真を撮って発信してほしい」という言葉をいただいた。テレビで報道される被災地の情報が限定されていて、同じように被災している自分たちの町の情報がなかなか報道されていないのだと言う。
正直、被災地の写真は記録として撮るだけにして、WEBやSNSなどでは公開しないことも考えていたけど、それなら僕は「自分にできることを全うしよう」と思った。覚悟を決めて、全力で能登半島に起きた現実を記録していくことにした。
輪島市輪島崎町(2024/1/25撮影)
能登をずっと撮り続けている写真家が「今」を撮ることに意味があると勝手に思っている。地域の人たちにとって、その神社が、その交差点が、どういった意味をもつ場所なのか、祭りを通じて理解しているからだ。(僕以外にも数馬雄晴さん、鍵主哲さん、山下満さん、坂本藍さん、松田咲香さんなど奥能登を拠点に素敵な写真を撮り続けている方がいるので、ぜひSNSなども見てみてほしい)
能登半島地震を記録する
キリコが巡行した道をたどるように歩いた。夏には確かにこの場所にいた。名前は知らなくてもたくさんの顔が思い浮かぶ。
珠洲市正院町(2024/1/24撮影)
「嘘であってほしい」
実際に被災地を見たときの状況は、テレビで見たときの印象と大きく異なる。僕はまるで時空が歪んで別世界にきてしまったような感覚に陥っていた。いざその場に立ってみると、自分がその場にいていいのかさえわからなくなってしまうほど、恐ろしい現実を目の当たりにした。
きっと被災地によって状況は異なるし、被災者の気持ちは当人たちにしかわからないことの方が多いだろう。それでもこの文章や写真を見てくださった方々には、今回のような自然災害を「不運な出来事」ではなく「明日は我が身」として『現実』を受け止めてほしい。
(※能登半島地震の写真は随時追加していきます)
珠洲市蛸島町
2024/1/23撮影
2024/1/23撮影
2024/1/23撮影
2024/1/23撮影
2024/1/23撮影
珠洲市宝立町(鵜飼・春日野)
2024/1/24撮影
2024/1/24撮影
2024/1/24撮影
2024/1/24撮影
2024/1/24撮影
珠洲市宝立町(鵜飼漁港)
2024/2/7撮影
2024/2/7撮影
2024/2/7撮影
2024/2/7撮影
2024/2/7撮影
珠洲市三崎町(寺家)
2024/1/29撮影
2024/1/29撮影
2024/1/29撮影
2024/1/29撮影
2024/1/29撮影
珠洲市大谷町
2024/1/29撮影
2024/1/29撮影
2024/1/29撮影
2024/1/29撮影
2024/1/29撮影
珠洲市正院町(正院)
2024/1/23撮影
2024/1/23撮影
2024/1/23撮影
2024/1/23撮影
2024/1/23撮影
珠洲市正院町(平床)
2024/2/12撮影
2024/2/12撮影
2024/2/12撮影
2024/2/12撮影
2024/2/12撮影
珠洲市飯田町
2024/1/23撮影
2024/1/23撮影
2024/1/23撮影
2024/1/23撮影
2024/1/23撮影
珠洲市三崎町(雲津)
2024/1/29撮影
2024/1/29撮影
2024/1/29撮影
2024/1/29撮影
2024/1/29撮影
珠洲市宝立町(鵜島・宗玄・南黒丸)
2024/1/30撮影
2024/1/30撮影
2024/1/30撮影
2024/1/30撮影
2024/1/30撮影
珠洲市狼煙町
2024/2/7撮影
2024/2/7撮影
2024/2/7撮影
2024/2/7撮影
2024/2/7撮影
珠洲市折戸町
2024/2/15撮影
2024/2/15撮影
2024/2/15撮影
2024/2/15撮影
2024/2/15撮影
珠洲市三崎町(二本松)
2024/2/15撮影
2024/2/15撮影
2024/2/15撮影
2024/2/15撮影
2024/2/15撮影
珠洲市正院町(小路)
2024/2/16撮影
2024/2/16撮影
2024/2/16撮影
2024/2/16撮影
2024/2/16撮影
輪島市河井町(輪島朝市)
2024/1/22撮影
2024/1/22撮影
2024/1/22撮影
2024/1/22撮影
2024/1/22撮影
輪島市鳳至町
2024/1/22撮影
2024/1/22撮影
2024/1/22撮影
2024/1/25撮影
2024/1/25撮影
輪島市河井町
2024/1/22撮影
2024/1/22撮影
2024/1/22撮影
2024/1/22撮影
2024/1/22撮影
輪島市輪島崎町
2024/1/25撮影
2024/1/25撮影
2024/1/25撮影
2024/1/25撮影
2024/1/25撮影
輪島市河井町(重蔵神社)
2024/1/22撮影
2024/1/22撮影
2024/1/22撮影
2024/1/22撮影
2024/1/22撮影
輪島市門前町(黒島)
2024/1/21撮影
2024/1/21撮影
2024/1/21撮影
2024/1/21撮影
2024/1/21撮影
輪島市門前町(道下)
2024/1/21撮影
2024/1/21撮影
2024/1/21撮影
2024/1/21撮影
2024/1/21撮影
輪島市門前町(浦上)
2024/1/21撮影
2024/1/21撮影
2024/1/21撮影
2024/1/21撮影
2024/1/21撮影
輪島市門前町(鹿磯漁港)
2024/1/28撮影
2024/1/28撮影
2024/1/28撮影
2024/1/28撮影
2024/1/28撮影
輪島市町野町
2024/2/1撮影
2024/2/1撮影
2024/2/1撮影
2024/2/1撮影
2024/2/1撮影
輪島市里町
2024/2/11撮影
2024/2/11撮影
2024/2/11撮影
2024/2/11撮影
2024/2/11撮影
輪島市名舟町
2024/2/11撮影
2024/2/11撮影
2024/2/11撮影
2024/2/11撮影
2024/2/11撮影
輪島市上大沢町
2024/2/23撮影
2024/2/23撮影
2024/2/23撮影
2024/2/23撮影
2024/2/23撮影
能登町布浦(比那)
2024/1/30撮影
2024/1/30撮影
2024/1/30撮影
2024/1/30撮影
2024/1/30撮影
能登町布浦(内浦総合運動公園)
2024/2/12撮影
2024/2/12撮影
2024/2/12撮影
2024/2/12撮影
2024/2/12撮影
能登町白丸
2024/1/17撮影
2024/1/17撮影
2024/1/17撮影
2024/1/24撮影
2024/1/24撮影
能登町鵜川
2024/1/24撮影
2024/1/24撮影
2024/1/24撮影
2024/1/24撮影
2024/1/24撮影
能登町松波
2024/1/30撮影
2024/1/30撮影
2024/1/30撮影
2024/1/30撮影
2024/1/30撮影
穴水町大町
2024/2/16撮影
2024/2/16撮影
2024/2/16撮影
2024/2/16撮影
2024/2/16撮影
穴水町鹿島
2024/2/17撮影
2024/2/17撮影
2024/2/17撮影
2024/2/17撮影
2024/2/17撮影
穴水町根木
2024/2/17撮影
2024/2/17撮影
2024/2/17撮影
2024/2/17撮影
2024/2/17撮影
穴水町沖波
2024/2/17撮影
2024/2/17撮影
2024/2/17撮影
2024/2/17撮影
2024/2/17撮影
氷見市姿
2024/2/10撮影
2024/2/10撮影
2024/2/10撮影
2024/2/10撮影
2024/2/10撮影
地震発生から一ヶ月が経とうとしている。とにかく毎日必死だったせいか、日にちや曜日感覚は失っていたけど、そろそろ自分の身の振り方についても考えなければいけない。それでも、もう少しだけは能登に残って写真を撮っていたいと思う。